
映画『爆弾』を観たあと、胸の奥にふわっと重いものが沈んでいくような感覚がしばらく続いていました。
衝撃的な物語であるはずなのに、私の中に残ったのは“強烈な怖さ”というより、
人の心の弱いところや、どうしようもない疲れのようなものに静かに触れてしまったような、そんな余韻でした。
この映画の中心にあるのは、爆弾そのものよりも、
爆弾が生まれてしまうほどの「行き場のない思い」や「孤独」なんだと思います。
そして、その真ん中には三人の登場人物が、それぞれ違う形の絶望や願いを抱えながら立っていました。
■鈴木たごさく――“もうどうでもいい”の向こう側にいる人
物語を動かしているのは鈴木という男性ですが、彼は典型的な悪役ではありません。
むしろ、心が限界まで疲れ切ってしまった人が、最後の糸が切れる瞬間に近いような存在でした。
彼は世界を憎んでいるように見えながら、どこかで「誰かに見つけてほしい」と願っているようにも感じられます。
けれど、誰にも届かず、寄り添ってくれる人もいなくて、
もうこれ以上どうしたらいいのか分からない
そんな境界の上に立っている人でした。
彼の選択は正しくはない。
でも、人を“悪”とひとことで切り捨てることもできず、
気づけば、彼の孤独の深さに胸が痛くなってしまう。
この映画が残していくのは、そんな複雑な感情です。
■由紀子――疲れ果てた母が、それでも手放せなかったもの
由紀子の物語も、とても静かな痛みがありました。
事件のあと、家族は壊れ、世間から叩かれ、
ついにはホームレスにまで落ち、それでも娘の存在に支えられて必死に生き延びてきた人。
もう十分につらくて、倒れてしまってもおかしくないほどのはずなのに、
「母として生きる」ということだけをよりどころにして、
しがみつくように現実に戻ってきた。
そんな彼女の前で、息子が犯罪者になってしまったと知る瞬間。
その場面を思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられるようです。
もう、耐えられなかったんだろうな、と。
彼女がしたことは許されることではないけれど、
その背景にある「もうこれ以上壊れたくない」という叫びのような思いは、
どこか切なくて、人としてとても理解できてしまう部分があります。
彼女は世界から逃げたいのではなく、
“まだこの世界で娘と一緒に生きたい”という思いに縛られていた人。
その必死さが、とても人間的でした。
■等々力――静かに立ち続けることの強さ
そんな重たい空気の中で、ひとすじの光のように感じたのが等々力という人物でした。
彼の言葉は、派手さもロマンチックさもありません。
けれど、鈴木に問われたときの一言――
「それでも、不幸せではない」
この言葉が、私の中にずっと残っています。
彼は尊敬していた刑事が不祥事を起こし、
世間から叩かれ、最後には命まで落としてしまったという苦しい現実を知っている。
それでも、その人の功績や生き方を否定することはなく、
静かに「それでも」と言える心の強さを持っている。
絶望を跳ね返すほどの強さではないけれど、
絶望に飲み込まれないだけの静かな力。
そういう強さが、この映画にそっと残された“小さな希望”なのかもしれません。
■重たさの中で、私が受け取ったもの
『爆弾』は、簡単に答えが出るような物語ではありません。
観たあとにモヤモヤが残るのは、登場人物たちが“正しい/間違っている”のどちらでもなく、
それぞれが「もう限界のところで必死に生きていた」からだと思います。
鈴木は世界に絶望し、
由紀子は世界にしがみつき、
等々力は世界に静かに立ち続ける。
類家も世界に留まりました。
誰の生き方もつらく苦しいけれど、
どれも人間らしくて、どれも痛くて、どれも真実味があります。
そんな中で、私は等々力のような生き方を少しだけ羨ましく思いました。
派手な幸せではなくても、
日常の中にある小さな光をちゃんと拾いながら、
「それでも、不幸せではない」と言える心。
青空を眺めながらコーヒーを飲む時間や、緑のそばで深呼吸する瞬間。
そんなささやかな時間が、私たちの心にも同じ光を残してくれるのかもしれません。
本では続編が出てるので、読んでみようかなと思います。
